野生
- 2018/10/03
- 21:33
今日10月3日は二代青木鈴慕先生の「お別れ会」でした。青山葬儀所ですからね、南部坂を3位に追いやって日本で一番有名な坂になった乃木坂(ちなみに第2位は欅坂です。常識として頭に入れておいてください)で地下鉄を降りると、すぐ目の前です。
葬儀が終わって、なんか私の青春に一区切りがついた様な気がしました。本当はとっくに尺八人生で好き放題やれる立場になっていたのですが、青木先生が生きていらっしゃるだけで、抑える気持ち、甘える気持ち、言わば「青春の尻尾」が、まだどこかについていたような気がします。それと、今日、別れてきました。
鈴慕会は現在、尺八として竹盟社、竹友社と並んで東京の「伝統邦楽界」のド真ん中にいる会です。ですから、おそらく時代の波を越える事は出来ないでしょう。現実が見えない学者さんなんかはイロイロ言いますが、事は簡単、「伝統邦楽」は終わったのです。再生はおろか盛り返しも有りません。ではどうなるのか?
三曲に代表される「伝統邦楽」が今生きている人達の共感を得られる、そう思っている尺八吹きは1人だっていないはずです。90パーセント以上が一般社会人、言ってみたら大人の世界ですからね。古典にしろ現代邦楽にしろ、イデオロギー信者みたいな教条主義を音楽に持ち込む人って、尺八界では20年前に死滅しました。今尺八界にいる人達はマトモナ話が通じる人ばかりです。
「伝統邦楽」の中には現代邦楽を含んでいるので、何か新しい事もやっている様なイメージも有りましたが、現代邦楽については、その過渡期としての功績を否定するものではありませんが、その実、私の知る限り音楽としては「古典邦楽」より支持する人は少なかったのです。
欧米や中国で人気が高まっている古典本曲は、唯一、再評価の可能性を残す「伝統邦楽」だと思いますが、「メジャー音楽」になるとは誰も思わないでしょう。でも「物好き外人さんの嗜好の範囲」は、今のままで行けば越えると思っています。
邦楽、この言葉は今では演歌とか和製ポップスを意味しますから、あえて「伝統邦楽」と言うわけですが、それは既に「時代に置いていかれた音楽」と邦楽人ですら認識するまでの段階に来ました。
私の前からの目的。それは「邦楽が少数派ジャンルとして生き残る道」の模索でした。決して「保護区でのみ生きる天然記念物」にしない事。外部刺激や内部からの変化を無視すれば、「伝統邦楽」の様な人が聴いて面白くないものは、簡単に天然記念物になれます。そうなったら、もう望んでも変化出来ないんですぜ。進化論のラチ外の世界で生きるだけになります。
私の生涯をかけての目標である「尺八の普及」は、ハードである尺八の普及であり、ソフトである邦楽の普及を意味しません。その為には新規参入のハードルを下げて、もっと軽い気持ちで尺八界に入れる様にするのが第一歩です。誰でもが気軽に、イイカゲンな気持ちででも始められれば、「尺八人口は現在の10倍20倍にまで増える」というくらいの範囲では、尺八の能力を信じています。
現在の10倍に有象無象が増えれば、真剣に尺八音楽と取り組む人の数も10倍です。なら天才的な尺八家も10倍です。「伝統」の檻をやぶる人も伝統を守る人も10倍。ですから新たな可能性も10倍です。その為には、何でも有り、煩い事を言う人が一部にいても、それも「伝統邦楽の面白さ」と楽しめる範囲に収められるくらいに、選択の巾の広がったゴチャゴチャな世界に出来たら最高です。
「伝統」はもはや尺八音楽に関しては束縛しうる力が無い。尺八は、もう野生に戻ろうとしているのが現状です。
私にとって、今日はマア、「こんな事をして、もしかしたら叱られるかも知れない」という、その最後の振り返りの気持ちが無くなった日です。
これからの尺八は急速に「邦楽にもソフトを持っている楽器」となるでしょう。ジャンルとして「保護区」のみでしか生きられない楽器にしてたまるか。
葬儀が終わって、なんか私の青春に一区切りがついた様な気がしました。本当はとっくに尺八人生で好き放題やれる立場になっていたのですが、青木先生が生きていらっしゃるだけで、抑える気持ち、甘える気持ち、言わば「青春の尻尾」が、まだどこかについていたような気がします。それと、今日、別れてきました。
鈴慕会は現在、尺八として竹盟社、竹友社と並んで東京の「伝統邦楽界」のド真ん中にいる会です。ですから、おそらく時代の波を越える事は出来ないでしょう。現実が見えない学者さんなんかはイロイロ言いますが、事は簡単、「伝統邦楽」は終わったのです。再生はおろか盛り返しも有りません。ではどうなるのか?
三曲に代表される「伝統邦楽」が今生きている人達の共感を得られる、そう思っている尺八吹きは1人だっていないはずです。90パーセント以上が一般社会人、言ってみたら大人の世界ですからね。古典にしろ現代邦楽にしろ、イデオロギー信者みたいな教条主義を音楽に持ち込む人って、尺八界では20年前に死滅しました。今尺八界にいる人達はマトモナ話が通じる人ばかりです。
「伝統邦楽」の中には現代邦楽を含んでいるので、何か新しい事もやっている様なイメージも有りましたが、現代邦楽については、その過渡期としての功績を否定するものではありませんが、その実、私の知る限り音楽としては「古典邦楽」より支持する人は少なかったのです。
欧米や中国で人気が高まっている古典本曲は、唯一、再評価の可能性を残す「伝統邦楽」だと思いますが、「メジャー音楽」になるとは誰も思わないでしょう。でも「物好き外人さんの嗜好の範囲」は、今のままで行けば越えると思っています。
邦楽、この言葉は今では演歌とか和製ポップスを意味しますから、あえて「伝統邦楽」と言うわけですが、それは既に「時代に置いていかれた音楽」と邦楽人ですら認識するまでの段階に来ました。
私の前からの目的。それは「邦楽が少数派ジャンルとして生き残る道」の模索でした。決して「保護区でのみ生きる天然記念物」にしない事。外部刺激や内部からの変化を無視すれば、「伝統邦楽」の様な人が聴いて面白くないものは、簡単に天然記念物になれます。そうなったら、もう望んでも変化出来ないんですぜ。進化論のラチ外の世界で生きるだけになります。
私の生涯をかけての目標である「尺八の普及」は、ハードである尺八の普及であり、ソフトである邦楽の普及を意味しません。その為には新規参入のハードルを下げて、もっと軽い気持ちで尺八界に入れる様にするのが第一歩です。誰でもが気軽に、イイカゲンな気持ちででも始められれば、「尺八人口は現在の10倍20倍にまで増える」というくらいの範囲では、尺八の能力を信じています。
現在の10倍に有象無象が増えれば、真剣に尺八音楽と取り組む人の数も10倍です。なら天才的な尺八家も10倍です。「伝統」の檻をやぶる人も伝統を守る人も10倍。ですから新たな可能性も10倍です。その為には、何でも有り、煩い事を言う人が一部にいても、それも「伝統邦楽の面白さ」と楽しめる範囲に収められるくらいに、選択の巾の広がったゴチャゴチャな世界に出来たら最高です。
「伝統」はもはや尺八音楽に関しては束縛しうる力が無い。尺八は、もう野生に戻ろうとしているのが現状です。
私にとって、今日はマア、「こんな事をして、もしかしたら叱られるかも知れない」という、その最後の振り返りの気持ちが無くなった日です。
これからの尺八は急速に「邦楽にもソフトを持っている楽器」となるでしょう。ジャンルとして「保護区」のみでしか生きられない楽器にしてたまるか。
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