菜食
- 2018/10/16
- 12:26
先週、フランス人尺八家のテウ・ボーヤライズさんの訪問を受けました。彼はフランス人ですが英語が堪能なので、おかげでいろいろ話せました。そのウチ昼時になったので「食事でも」となったのですが、すまなそうに、自分はべジタリアンだと言います。訊いてみると卵も乳製品もダメだと言います。前夜、「朝食付きの日本旅館に泊まった」と言いますから、さぞ大変だったろうと思いました。本人は「御飯と漬物で美味しく食べた」と言いますが、大変なのはテウさんではなくて旅館の方ですよ。
それでも家内が工夫して昼食のウドンとカボチャの煮物、果物を整えましたが、何しろ出汁を含めて動物性は全くダメでしょう。こりゃ大変だわ。
私が初めて菜食主義者というものの存在を知ったのは幼稚園の頃。メルボルンオリンピックが有ったでしょう、その時に水泳で金メダルをとったマレー・ローズ。彼について「野菜しか食わない」と大人達が言っているのを聞きました。それでどう思ったか?もう憶えていませんが、好意的には受け止めなかったと思います。だって、当時の日本人の食事は貧しいもので、たまに肉が出ると大喜びしました。それを、何を好き好んで?というところだったのではないかしら・・・。
そして中学1年の時です、プロレスで世界的大スター、キラー・コワルスキーが来日しました。この人は「健康の為」に菜食主義者になった人だけに、時として肉食もしていたと聞きます。菜食にする以前は筋骨隆々たるものでしたが、菜食にしてガリガリに痩せ、まるで幽鬼の様で、かえって凄みが出ました。当時は「菜食になって無限のスタミナがついた」とかの「煽り記事」を真に受けていましたがね、半分芸能でもあるプロレスだから良い様なもの、菜食と引き換えに本当の凄さは失われていたらしいです。
菜食主義者にとって日本はかなり難しい国です。これが中国ですと「素食」という菜食専門レストランが至る所に有りますし、半分以上の人が菜食だと言われるインドや他のアジア地域でも韓国を除いては、比較的楽に過ごせます。でも、それはベジタリアンでも「乳製品はオーケー」のラクトベジタリアンの場合であって、テウさんみたいな卵も乳製品もダメだと、何処でも、かなり難易度は高くなりますね。
以前、琵琶の関川鶴祐が3年ばかり「完全菜食」をやっていまして、その当時、来日したライリー・リーさんが「久しぶりに太鼓の林永哲さんに会いたい」と言うので、小池哲二さんをいれた4人で林さんに会いに行きました。その時、宇崎竜童がやっていた林さんお勧めのレストラン、そこの店員と危うく喧嘩になる寸前になりました。関川が料理の内容をうるさく訊きただし、その上イチイチ否定的なコメントをするので、因縁をつけられていると思ったのでしょうね。彼は言葉足らないのですよ。ですから私がかわって、懇切丁寧に理由を説明して事無きを得ました。まだ、「ベジタリアン」という言葉が一般的ではなかった頃です。
尺八でも何人ものベジタリアンがいますが、9月に中国で会った2人の道士を除いて、私の会った人達の全員が欧米人でした。20年位前ですか、田嶋直士さんの講習会に参加したアメリカ人、彼もそうで、昼食の弁当の買い出し役の私としては苦労しましたぜ。日本語を話せない人だったので、その範囲をイチイチ確認したのです。コンビニやスーパーに行けば野菜サンドは売っていますが、バターやマヨネーズが駄目な人にはアウトです。弁当屋で事情を言って野菜料理だけの弁当を作ってもらうにしても、植物油だけの肉無し野菜炒め、出汁にカツオを使わない煮物、それだけの為に別の鍋を使った天婦羅、アナタさん、こんなもの弁当屋に特注する度胸有る?
結局は、サンドイッチ屋に不思議そうな顔をされて、野菜と塩のみのサンドイッチを作ってもらい、あとはコンビニでコンブのおにぎりを買って間に合わせました。
私が会った欧米人の菜食尺八家達は、宗教とか健康とかの為ではなく、「生き物を殺すのは嫌」とか言います。また「菜食をしていると心がピュアになる」、この場合「明澄」とかを意味するんですか、ともかくそうも言います。
人の趣味ですから私がとやかく言う事ではありませんが、体に優しい肉とか魚、つまり動物性タンパクを摂取しないのですから、「完全菜食」なら健康に悪い事は言うまでもありません。でも「心がどうか」とかであれば「マアお好きに」と言うスタンスです。ラクト派とか無精卵(つまりほとんど)まで良ければ健康で長生きする場合も有るのでしょう。思い切って金をかければ野菜プラス木の実、大豆蛋白で健康を保つことも絶対不可能とまでは言えないでしょう。
「完全菜食」など健康の面から見たら体に悪い事は明らかです。でも、そこに「心が澄む」という様なテーゼを持ち出されると、もう他人の容喙できる余地は有りません。
尺八は他の楽器より「心」と向かい合えるのでしょうか?他の楽器を一定レベルまでやった事のない私には分かりません。でも、上海での古管オークションで、楽器としては不十分である数十本の古管に、次々と指値が入る現状を見て、尺八の楽器としての側面以外の認識が、まだまだ不十分だったのだと思いました。
「新管が高いから」と言う人がいる反面、古管に「楽器ではあっても、その範囲を越えた何か」を求めている人も多いのですね。これは尺八というモノの「純然たる楽器としての後進性」なのでしょう。でも文化としての比類ない豊かさの証明でもあります。
それでも家内が工夫して昼食のウドンとカボチャの煮物、果物を整えましたが、何しろ出汁を含めて動物性は全くダメでしょう。こりゃ大変だわ。
私が初めて菜食主義者というものの存在を知ったのは幼稚園の頃。メルボルンオリンピックが有ったでしょう、その時に水泳で金メダルをとったマレー・ローズ。彼について「野菜しか食わない」と大人達が言っているのを聞きました。それでどう思ったか?もう憶えていませんが、好意的には受け止めなかったと思います。だって、当時の日本人の食事は貧しいもので、たまに肉が出ると大喜びしました。それを、何を好き好んで?というところだったのではないかしら・・・。
そして中学1年の時です、プロレスで世界的大スター、キラー・コワルスキーが来日しました。この人は「健康の為」に菜食主義者になった人だけに、時として肉食もしていたと聞きます。菜食にする以前は筋骨隆々たるものでしたが、菜食にしてガリガリに痩せ、まるで幽鬼の様で、かえって凄みが出ました。当時は「菜食になって無限のスタミナがついた」とかの「煽り記事」を真に受けていましたがね、半分芸能でもあるプロレスだから良い様なもの、菜食と引き換えに本当の凄さは失われていたらしいです。
菜食主義者にとって日本はかなり難しい国です。これが中国ですと「素食」という菜食専門レストランが至る所に有りますし、半分以上の人が菜食だと言われるインドや他のアジア地域でも韓国を除いては、比較的楽に過ごせます。でも、それはベジタリアンでも「乳製品はオーケー」のラクトベジタリアンの場合であって、テウさんみたいな卵も乳製品もダメだと、何処でも、かなり難易度は高くなりますね。
以前、琵琶の関川鶴祐が3年ばかり「完全菜食」をやっていまして、その当時、来日したライリー・リーさんが「久しぶりに太鼓の林永哲さんに会いたい」と言うので、小池哲二さんをいれた4人で林さんに会いに行きました。その時、宇崎竜童がやっていた林さんお勧めのレストラン、そこの店員と危うく喧嘩になる寸前になりました。関川が料理の内容をうるさく訊きただし、その上イチイチ否定的なコメントをするので、因縁をつけられていると思ったのでしょうね。彼は言葉足らないのですよ。ですから私がかわって、懇切丁寧に理由を説明して事無きを得ました。まだ、「ベジタリアン」という言葉が一般的ではなかった頃です。
尺八でも何人ものベジタリアンがいますが、9月に中国で会った2人の道士を除いて、私の会った人達の全員が欧米人でした。20年位前ですか、田嶋直士さんの講習会に参加したアメリカ人、彼もそうで、昼食の弁当の買い出し役の私としては苦労しましたぜ。日本語を話せない人だったので、その範囲をイチイチ確認したのです。コンビニやスーパーに行けば野菜サンドは売っていますが、バターやマヨネーズが駄目な人にはアウトです。弁当屋で事情を言って野菜料理だけの弁当を作ってもらうにしても、植物油だけの肉無し野菜炒め、出汁にカツオを使わない煮物、それだけの為に別の鍋を使った天婦羅、アナタさん、こんなもの弁当屋に特注する度胸有る?
結局は、サンドイッチ屋に不思議そうな顔をされて、野菜と塩のみのサンドイッチを作ってもらい、あとはコンビニでコンブのおにぎりを買って間に合わせました。
私が会った欧米人の菜食尺八家達は、宗教とか健康とかの為ではなく、「生き物を殺すのは嫌」とか言います。また「菜食をしていると心がピュアになる」、この場合「明澄」とかを意味するんですか、ともかくそうも言います。
人の趣味ですから私がとやかく言う事ではありませんが、体に優しい肉とか魚、つまり動物性タンパクを摂取しないのですから、「完全菜食」なら健康に悪い事は言うまでもありません。でも「心がどうか」とかであれば「マアお好きに」と言うスタンスです。ラクト派とか無精卵(つまりほとんど)まで良ければ健康で長生きする場合も有るのでしょう。思い切って金をかければ野菜プラス木の実、大豆蛋白で健康を保つことも絶対不可能とまでは言えないでしょう。
「完全菜食」など健康の面から見たら体に悪い事は明らかです。でも、そこに「心が澄む」という様なテーゼを持ち出されると、もう他人の容喙できる余地は有りません。
尺八は他の楽器より「心」と向かい合えるのでしょうか?他の楽器を一定レベルまでやった事のない私には分かりません。でも、上海での古管オークションで、楽器としては不十分である数十本の古管に、次々と指値が入る現状を見て、尺八の楽器としての側面以外の認識が、まだまだ不十分だったのだと思いました。
「新管が高いから」と言う人がいる反面、古管に「楽器ではあっても、その範囲を越えた何か」を求めている人も多いのですね。これは尺八というモノの「純然たる楽器としての後進性」なのでしょう。でも文化としての比類ない豊かさの証明でもあります。
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