審美革命
- 2018/11/26
- 22:54
今年の8月、ロンドンで行われた尺八フェスティバルでの事。志村哲先生の地無し長管を三浦龍畝さんが懸命に吹いていて、思うような音が出せないので、遂に「いやあ地無しは奥が深い」と慨嘆しました。「奥が深い」は正直に感想を述べられない時に、しばしば製管師達が言う言葉で、多くはマイナス評価ですが、この場合の龍畝さんがどちらの意味で言ったかは分かりません。
すると代わって志村先生が吹き、幾つかの音を「この音が地無しの宝なんです」と言っていました。
不思議に思った事は無いですか? 例えばゴッホです。ゴッホの絵は生前は全く評価されなかったでしょう。可哀そうに思った画商を営む実弟が1枚買っただけです。それが後世になると多くの人が絶賛する。ゴーギャンだってそうだし、途中までのセザンヌだって似た様なものですよ。尺八ゆかりの画家では青木繁がそうです。
千利休が歪で質素な茶碗を「大名品」として持ち出した時、多くの人が懐疑的だったと思います。信長、秀吉と結びついた政商が言うことですから、権威に従順な人は盲信するでしょうし、多少とも懐疑的な人は「権力と結びついた洗脳商売だ】」と思ったに違いありません。事実そういう面も有ったと思います。でも、そこにイクバクカでも「真実の部分」が無いなら、何世代を経てもなお、「美」として存在し続けることは不可能だと思います。
利休の説いた美は、江戸時代には完全に確立していて、もう疑う人はいませんでした。勿論、理解できない人は、今日と同じく多数派だったとは思います。でも、その人達も今と同様に「自分が分からないだけ」と受けとめていたと思います。
昨日まで関西で展示会をやっていて、驚いたのは多くの人から「地無しは無いか?」と言われたことです。地無し尺八の注文は、このところ月に1,2本有ります。でも10年前だと年に1本か2本だったのですよ。10年前には1年に千本売っていましたが、それでも、こういう具合だったのです。
現在、アメリカでも中国でもヨーロッパでも多くの「地無し愛好家」が存在しています。ヨーロッパではイギリス、北欧、ロシア、ドイツ等、調律管愛好者とどちらが多いのか分からない地域すら有ります。日本でも、明らかに増えて来ています。これをどう考えるか?
私は、正直言って「地無し懐疑派」です。20年近く前に横山勝也先生は、「地無し尺八をどう思うか?」との、ある人からの質問に対して、こう答えました。「地無しで出来る事は、その気になれば調律管で全部出来る。調律管で必死にやっている音楽を地無し管で出来るとは思えない。地無しで吹く音楽が素晴らしければ皆がやっているはずです」。
私も賛成です。それにまた、私は「地無し派」の音楽をやる者としての無知蒙昧、凄惨きわまる状態を見すぎました。勿論、そうでないケースも知っていましたし、そう言う意味でなら当時の「調律派」も似たようなものだったかも知れません。でも「五十歩百歩」ではない。その酷い部分の比率が「地無し派」の方が遥かに多かった。そうまでとは思わなくとも、地無し尺八が物凄く下手な人の「駆け込み寺」になっていた(なっている)事は否定出来ないと思います。多くの人が言う「地無しは虚無僧の音楽」というのも私は違うと思います。
でも、最近思うのです。地無しは、これまでの美と違う、私が理解できない「新しい美の概念」を創りつつあるのではないか?
専門家や通を称する人達が、偽物の茶碗をつかまされたり、からかう目的で作った、幼児やチンパンジーの描いた絵を絶賛してワライモノになったりすると、「分からない人達」は、「ほら見ろ、やっぱりインチキじゃないか。架空の価値をでっち上げたんだ。本当は皆が分からないくせに分かるふりをしているんだ」と快哉を叫んだりしますね。私は野暮な事だと思うのですよ。他人が分かる分からないなんて、本当はどっちでも良い事だと思います。「美しいものが存在する」、その事と貴方が分からない事との間には何の関係も存在しません。日本人の限りなく100パーセントに近い人間が絶賛する白石麻衣だって、「アタイは(俺は、は存在しない)美人とは思わない」と言う人だって、私は会った事無いけど、いるかも知れません。エっ、「前は松坂慶子、桐谷美玲と言ったはずだ」ですと、気のせいですよ。そんな事どうでも良いでしょう。
ダイイチ誰の共感も得られない様なものなら、世代を跨いだりしませんよ。
例えて言えば、水墨画とか井戸茶碗、織部、志野に通じる様な美、新しい尺八音楽の美しさとか境地を地無しは確立しつつあるのかも知れません。
すると代わって志村先生が吹き、幾つかの音を「この音が地無しの宝なんです」と言っていました。
不思議に思った事は無いですか? 例えばゴッホです。ゴッホの絵は生前は全く評価されなかったでしょう。可哀そうに思った画商を営む実弟が1枚買っただけです。それが後世になると多くの人が絶賛する。ゴーギャンだってそうだし、途中までのセザンヌだって似た様なものですよ。尺八ゆかりの画家では青木繁がそうです。
千利休が歪で質素な茶碗を「大名品」として持ち出した時、多くの人が懐疑的だったと思います。信長、秀吉と結びついた政商が言うことですから、権威に従順な人は盲信するでしょうし、多少とも懐疑的な人は「権力と結びついた洗脳商売だ】」と思ったに違いありません。事実そういう面も有ったと思います。でも、そこにイクバクカでも「真実の部分」が無いなら、何世代を経てもなお、「美」として存在し続けることは不可能だと思います。
利休の説いた美は、江戸時代には完全に確立していて、もう疑う人はいませんでした。勿論、理解できない人は、今日と同じく多数派だったとは思います。でも、その人達も今と同様に「自分が分からないだけ」と受けとめていたと思います。
昨日まで関西で展示会をやっていて、驚いたのは多くの人から「地無しは無いか?」と言われたことです。地無し尺八の注文は、このところ月に1,2本有ります。でも10年前だと年に1本か2本だったのですよ。10年前には1年に千本売っていましたが、それでも、こういう具合だったのです。
現在、アメリカでも中国でもヨーロッパでも多くの「地無し愛好家」が存在しています。ヨーロッパではイギリス、北欧、ロシア、ドイツ等、調律管愛好者とどちらが多いのか分からない地域すら有ります。日本でも、明らかに増えて来ています。これをどう考えるか?
私は、正直言って「地無し懐疑派」です。20年近く前に横山勝也先生は、「地無し尺八をどう思うか?」との、ある人からの質問に対して、こう答えました。「地無しで出来る事は、その気になれば調律管で全部出来る。調律管で必死にやっている音楽を地無し管で出来るとは思えない。地無しで吹く音楽が素晴らしければ皆がやっているはずです」。
私も賛成です。それにまた、私は「地無し派」の音楽をやる者としての無知蒙昧、凄惨きわまる状態を見すぎました。勿論、そうでないケースも知っていましたし、そう言う意味でなら当時の「調律派」も似たようなものだったかも知れません。でも「五十歩百歩」ではない。その酷い部分の比率が「地無し派」の方が遥かに多かった。そうまでとは思わなくとも、地無し尺八が物凄く下手な人の「駆け込み寺」になっていた(なっている)事は否定出来ないと思います。多くの人が言う「地無しは虚無僧の音楽」というのも私は違うと思います。
でも、最近思うのです。地無しは、これまでの美と違う、私が理解できない「新しい美の概念」を創りつつあるのではないか?
専門家や通を称する人達が、偽物の茶碗をつかまされたり、からかう目的で作った、幼児やチンパンジーの描いた絵を絶賛してワライモノになったりすると、「分からない人達」は、「ほら見ろ、やっぱりインチキじゃないか。架空の価値をでっち上げたんだ。本当は皆が分からないくせに分かるふりをしているんだ」と快哉を叫んだりしますね。私は野暮な事だと思うのですよ。他人が分かる分からないなんて、本当はどっちでも良い事だと思います。「美しいものが存在する」、その事と貴方が分からない事との間には何の関係も存在しません。日本人の限りなく100パーセントに近い人間が絶賛する白石麻衣だって、「アタイは(俺は、は存在しない)美人とは思わない」と言う人だって、私は会った事無いけど、いるかも知れません。エっ、「前は松坂慶子、桐谷美玲と言ったはずだ」ですと、気のせいですよ。そんな事どうでも良いでしょう。
ダイイチ誰の共感も得られない様なものなら、世代を跨いだりしませんよ。
例えて言えば、水墨画とか井戸茶碗、織部、志野に通じる様な美、新しい尺八音楽の美しさとか境地を地無しは確立しつつあるのかも知れません。
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