段々と世の中が便利になって、諸事に幻想が持てなくなってきましたな。私の子供の頃、昭和30年代は、勿論ひとっ頃よりは便利になり、ラジオ、テレビ、あるいは少年向きの漫画雑誌なんかで大量の情報がながされる様になりましたが、全般にゆるく、不正確な情報、と言うよりハッキリ意図した「でっち上げ」が横行していました。日本人もまだまだ狭い認識の世界にいたのです。
ですから、まだ見ぬ他の世界、いや、この日本にだって不思議、謎、驚異、そして夢が満ちていました。川口浩の「探検ドキュメント」。知ってるでしょう、二つ頭の有る蛇とか原始猿人とか金色の怪物とかを探すやつですよ。たしか「人食い人種を探す」だったな、ただでさえ「魔境ボルネオ」とかと放送されて不快感を募らせていたインドネシア政府に「オレ達の国に人食い人種なんかいるはずがネエだろう。バカにするな」と抗議されたのは・・・。
今なら「子供騙し」と言う以前に放送倫理が問題にされますが、その頃は「面白ければお構いなし」。ですから当時は少年だけでなくイノセントな大人だって半分信じていたんですぜ。少なくとも、かなり多くの人が「ひょっとしたら、そういう事も有るかも知れない」と思って見ていたと思います。
スポーツとか武術、芸術でもそうですな。前は「物理学に反する能力」とか、到底人類の到達出来ないレベルの記録とかをオハナシに聞いても、「広い世界、まだ未知の部分が多いから、そういう人だって存在しないとは言い切れない」で妙に納得する人が多かった。
今の様に情報が発達し、世界の隅々までテレビカメラが入り込む様になると、多くの事を知ったかわりに、人は幻想を失いました。
尺八も私の一世代前の人達の認識の中には「超人、神人」が存在していたようです。直接見聞きできないだけに、尺八や邦楽の名手達のイメージが実像の何倍にも膨れていたみたいです。勿論途方もない能力、技術を持った人はいたんですよ、でもその人達が「伝聞の中」で膨らんでいたんです。幸い東京にいて学生だった私達は、直接的に触れ合っていただけに、もう少しは正味を見ていました。ですから、後になって「エッ、あの先生って実はこの程度の演奏力だったんだ」と思う事がしばしばでした。
ですからね、この幻想というヤツ、やっぱりこれが有った方がスポーツでも芸事でも面白いですよ。物事を突き詰めていくと、またあらためて凄い人達の凄さが、今度は客観性をもって分かってきます。でも、その前の段階にあっては多少はマボロシみたいなモノが有った方が良いと思うのですよ。
だからって無知ゆえのノメリコミは感心しませんな。私は非常に恥ずかしい思いをしたことが有ります。高橋照誠山と死んだカメラ屋の後藤です。どういうわけか私の恥ずかしい思い出は、この二人がからんだものが多い。マアそれはともかく、1973年秋、所は都市センターホール。日本音楽集団の定期演奏会の開幕前の客席でのことです。
後藤の「あべ静江は糞をしない」の発言に高橋の河童が噛みついて、周りにたくさんの人達がいるのに論争したんですぜ。私は同じ大学に学んだ先輩として、その場にいられないほど恥ずかしかった。幸い開演ベルが鳴ったので良かったが、もう少しで大声を出して注意するところでした。
だってそうでしょう。沢山の人達の前で我が母校・法政の知性を疑われる無知をさらしたんでっせ。「あべ静江が糞をしない」、バカ野郎、当時糞をしなかったのは栗原小巻様だけだ。
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