年賀状
- 2019/01/02
- 20:10
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年から、また年賀状を自分で一部でも書くことにしました。思い出せないくらい前には全部、自分で書いていたんです。でも、超売れっ子の私は12月は仕事が年末まで有るのが普通ですし、顧客総数が2千人を超えた30年前くらいから、アルバイトの人に、ダイレクトメールのついでに書いてもらっていました。
それがどうして? 客に失礼だからではありません。私はもともと、その種の事には重要性を見出していないのです。では何故?68になって、記憶力の衰えが甚だしくなりました。特に名前です。顔も来歴も分かっているのに名前が出てこない。入金の礼状は、これまでも一貫して自分で書いていましたから、前は、それだけで忘れる事なんて無かったのですがね。今は駄目ですね。それで、時間がかかっても、1年に1回、再度、脳にインプットする為に、自分で年賀状の宛名を書く様にしました。
私が、この尺八というものを始めてから50年、仕事としてからでも早いもので、今年でマル40年です。振りかえって見れば、長いとも言え短いとも言える、この半世紀、かなり尺八にも変動が起きましたね。
50年前だと、尺八を吹いていた人のうちの大部分が、私より、かなり年上だったので、「教わる事」ばかりでしたが、その「教わった事」のほとんど全てを「全共闘世代の学生」だった私達は、内心でバカにしていました。ここから私は「近代尺八の幕が開いた」と、今あらためて当時の学生の姿勢を高く評価する次第です。
その頃の尺八吹きと言ったら、その7割は楽器、音楽をやっているという感じではなく、「尺八というもの」を愛好していたのです。この所を誤解されると困るのですが、単に「世代の価値観の違い」というだけで、前の世代の人そのものをコケにしていたわけではありません。
私達より前の世代は、戦争を挟んだ過酷きわまる時代をくぐってきただけに、土性骨は坐っていましたし、その忍耐力とか勤勉さ、工夫の才等は私達の世代の比ではありません。それに「世界国家」を目指した大日本帝国時代に少年期、青年期を送っただけあって、海外生活の経験の有る人達も多く、敗戦後の混迷期にショボクレタ少年期を送った私達より、あくまで一時的に、ではありますが、国際感覚を身につけてもいました。(あくまでもトレンドの話をしているんであって、比較少数を挙げる様な子供みたいな話は止めてよね)。
でも、尺八吹きの話に限定した方が面倒が無いですが、そっちの方面、つまり音楽とか文化とかの認識は子供並みでした。無理もない、そういう時代環境に育たなかったのですもの・・・。
私達って、もの心がついたのは昭和30年代でしょう。ですから古典邦楽を聞く環境にいたのは、尺八を吹いていた者の5パーセントもいないです。洋楽はロカビリーから始まって、ジャズ、プレスリー、ビートルズですよ。でも同時に、「伝統日本音楽」に関しても、かって無いほどの恵まれた環境にいたと思います。
17世紀の終わりに起こった「音楽革命」。言うまでもなく「陰旋法5音階」ですが、18世紀初めまでの、わずか30年で、日本の音楽世界を制覇してしまいました。この「陰旋法5音階音楽」は、ほぼ2世紀の間、「日本の伝統音楽の典型」として日本人の音楽嗜好を支配しましたが、1970年代いっぱいで、その役割をほぼ終え、以後はもう流行も可能性も提示出来なくなったのですが、私達の育った昭和30年代、40年代には歌謡曲(演歌)という形を採って、その爛熟期を迎えていました。その為に、当時は日本の音楽、文学、演出の才能のかなりの部分が、この大市場に流れ込んでいました。この真っただ中に育ち、ここにドップリ浸っていた私達から見ると、前の世代の尺八家の大半が言う事が、内心「未熟者」の一言で切り捨てられたのは当然です。
年賀状を書いていて、もう尺八界に現存する人達の大半が私達、戦後世代になってしまった事をあらためて痛感しました。私達の下の世代は、尺八界では上と同じくらい少ないのです。
年賀状の為に顧客名簿を見ていると、他界されて抹消された前の世代の人名が嫌でも目に入ります。それを見るたびに、「尺八に関する肝心な事は何も知らなかった」けど尺八というモノが大好きで、その人達が、私に下さった親切や温情を感謝と共に懐かしく思い出しました。だから、その為だけでも来年も自分で書こうと思いました。
まだ少ない私達の下の尺八世代。願わくば私達と衝突し、多様な方向性を示して、私達の尺八観を「まだ狭い」とコケにしてほしい。尺八音楽の価値観の更なる(私達から見た)混乱を起こして欲しい。そして、30年経ったら懐かしく思い出してください。
何かのたとえ、とか思わないでよ。本音なんだから・・・。
それがどうして? 客に失礼だからではありません。私はもともと、その種の事には重要性を見出していないのです。では何故?68になって、記憶力の衰えが甚だしくなりました。特に名前です。顔も来歴も分かっているのに名前が出てこない。入金の礼状は、これまでも一貫して自分で書いていましたから、前は、それだけで忘れる事なんて無かったのですがね。今は駄目ですね。それで、時間がかかっても、1年に1回、再度、脳にインプットする為に、自分で年賀状の宛名を書く様にしました。
私が、この尺八というものを始めてから50年、仕事としてからでも早いもので、今年でマル40年です。振りかえって見れば、長いとも言え短いとも言える、この半世紀、かなり尺八にも変動が起きましたね。
50年前だと、尺八を吹いていた人のうちの大部分が、私より、かなり年上だったので、「教わる事」ばかりでしたが、その「教わった事」のほとんど全てを「全共闘世代の学生」だった私達は、内心でバカにしていました。ここから私は「近代尺八の幕が開いた」と、今あらためて当時の学生の姿勢を高く評価する次第です。
その頃の尺八吹きと言ったら、その7割は楽器、音楽をやっているという感じではなく、「尺八というもの」を愛好していたのです。この所を誤解されると困るのですが、単に「世代の価値観の違い」というだけで、前の世代の人そのものをコケにしていたわけではありません。
私達より前の世代は、戦争を挟んだ過酷きわまる時代をくぐってきただけに、土性骨は坐っていましたし、その忍耐力とか勤勉さ、工夫の才等は私達の世代の比ではありません。それに「世界国家」を目指した大日本帝国時代に少年期、青年期を送っただけあって、海外生活の経験の有る人達も多く、敗戦後の混迷期にショボクレタ少年期を送った私達より、あくまで一時的に、ではありますが、国際感覚を身につけてもいました。(あくまでもトレンドの話をしているんであって、比較少数を挙げる様な子供みたいな話は止めてよね)。
でも、尺八吹きの話に限定した方が面倒が無いですが、そっちの方面、つまり音楽とか文化とかの認識は子供並みでした。無理もない、そういう時代環境に育たなかったのですもの・・・。
私達って、もの心がついたのは昭和30年代でしょう。ですから古典邦楽を聞く環境にいたのは、尺八を吹いていた者の5パーセントもいないです。洋楽はロカビリーから始まって、ジャズ、プレスリー、ビートルズですよ。でも同時に、「伝統日本音楽」に関しても、かって無いほどの恵まれた環境にいたと思います。
17世紀の終わりに起こった「音楽革命」。言うまでもなく「陰旋法5音階」ですが、18世紀初めまでの、わずか30年で、日本の音楽世界を制覇してしまいました。この「陰旋法5音階音楽」は、ほぼ2世紀の間、「日本の伝統音楽の典型」として日本人の音楽嗜好を支配しましたが、1970年代いっぱいで、その役割をほぼ終え、以後はもう流行も可能性も提示出来なくなったのですが、私達の育った昭和30年代、40年代には歌謡曲(演歌)という形を採って、その爛熟期を迎えていました。その為に、当時は日本の音楽、文学、演出の才能のかなりの部分が、この大市場に流れ込んでいました。この真っただ中に育ち、ここにドップリ浸っていた私達から見ると、前の世代の尺八家の大半が言う事が、内心「未熟者」の一言で切り捨てられたのは当然です。
年賀状を書いていて、もう尺八界に現存する人達の大半が私達、戦後世代になってしまった事をあらためて痛感しました。私達の下の世代は、尺八界では上と同じくらい少ないのです。
年賀状の為に顧客名簿を見ていると、他界されて抹消された前の世代の人名が嫌でも目に入ります。それを見るたびに、「尺八に関する肝心な事は何も知らなかった」けど尺八というモノが大好きで、その人達が、私に下さった親切や温情を感謝と共に懐かしく思い出しました。だから、その為だけでも来年も自分で書こうと思いました。
まだ少ない私達の下の尺八世代。願わくば私達と衝突し、多様な方向性を示して、私達の尺八観を「まだ狭い」とコケにしてほしい。尺八音楽の価値観の更なる(私達から見た)混乱を起こして欲しい。そして、30年経ったら懐かしく思い出してください。
何かのたとえ、とか思わないでよ。本音なんだから・・・。
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